内閣法制局という組織(2) 内閣法制局の実態

内閣法制局という組織(2) 内閣法制局の実態

 霞が関の中央官庁に就職した役人にとって、法案作成は、予算獲得や組織の維持拡大と並ぶ重要な仕事である。憲法には「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(41条)と書いてあるからといって、国会議員本人はもとより、その秘書が法律を書くことなどほとんど皆無といってよい。もちろん国会議員の中には弁護士出身者も少なくないが、選挙と政局に忙殺され、法律の条文など小難しいことは役人に丸投げというのが実態である。法案の大半は「内閣提出法律案(閣法案)」であり、各省庁の役人が内閣法制局の審査を経て提出するものである。

なお、議員提出法案についての法律文言のチェックなどは、内閣法制局でなく、衆議院参議院それぞれの法制局で審査される。

 

 最近のデータでみると、2010年以降の3年半の期間において、具体的には第174回通常国会(平成22年1~6月)から第183回通常国会(平成25年1~6月)までの期間に国会に提出された法案は全部で677本あるが、そのうち閣法案は358本であり、議員提出法案も319本ある。「結構あるではないか?」と思われるだろうが、この議員提出法案319本のうち成立したものは94本に過ぎない。閣法案のうち成立したものは251本もあるから、成立率でみると70%対29%と大差がある。議員提出法案は、野党の提出する対抗法案が多いから成立率が低いのはある程度やむを得ないが、公職選挙法のように所管省庁のない国会固有のものや、いじめや子供の貧困といった与野党対立になりにくいものが多く、政策的な議論を経て各省庁に実施されるもののほとんどが省庁自身によって起草されているのが現実である。法案作成過程に関する研究の嚆矢となったのは田丸大の『法案作成と省庁官僚制』(信山社2000)であるが、田丸自身も東京大学法学部を卒業して建設省に勤務した経験を持ち、政治学者に転向した経歴を持つ。この研究にしても、建設省という役所内部のプロセスと地方自治体との調整、他省庁との折衝、そして国会審議の過程についての分析であり、内閣法制局の役割については最小限しか言及されていない。

 

 では、内閣法制局では具体的にどのような仕事をしているのだろうか?

内閣法制局も行政機関であるから、設置法があり、所掌事務が以下のように記載されている。

第三条  内閣法制局は、左に掲げる事務をつかさどる。

 閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること。

 法律案及び政令案を立案し、内閣に上申すること。

 法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること。

 内外及び国際法制並びにその運用に関する調査研究を行うこと。

 その他法制一般に関すること。

 ここで大事なことは、「法制一般に関すること」に限られることである。政策の中身は、法律技術論の観点からでなければ、意見することはできない。役人として、一番面白いのは、政策論争をして世の中を仕切り動かすことと考えられているから、法制局の仕事は本当の「お役所仕事」として、つまらない仕事と考えられている。

 一番労力をとられるのは、「正しい日本語」であるかのチェックである。誤字脱字の類はもちろん、送り仮名の一字一句に間違いがあってはならない。実際、膨大な法律条文が国会に提出されているが、修正を必要とするものは極めて少ない。

 ここでいう「正しい日本語」とは、国語学や文学において正しいという意味ではない。法令用語として正しいかどうかである。「法令用語」の基本は、「青本」である。「青本」の本当の名称は「新公用文用字用語例集」といい、専門の本屋から出版されている。日本語の問題としては正しい送り仮名であったとしても、これに載っていないものは間違いとされる。法律の文言はもちろんのこと、国会答弁の答弁書の類であっても、これに従った書き方ができないと「役人として恥ずかしい」とされる。昔は、法学部出身で国家公務員試験第1種の法律職の区分で合格した人を「法令事務官」といって、法律関係の事務を任せることが多かったから、「役所のきちんとした文章が書ける人」と見なされ、法律ほど厳密な文章でなくても彼らのチェックを受けることが慣例となっていた。これは、法学部教育の有用性を認めたり、役所の日本語がちゃんとしていることを担保したりするためというより、単に技官や民間企業からの出向者に対するいじめである場合が多い。

90年代に『三本の矢』という小説が話題になったことがある。バブルを憂い、それを早期に崩壊させ事態を収拾させるために、大蔵大臣の国会答弁をすり替え、意図的に銀行の取り付け騒ぎを起こすという話なのだが、すり替えられた答弁の送り仮名が「青本」に従ったものではなかったために、銀行からの出向者の犯行だとばれるというオチだった。やたらに大蔵省内の事情に詳しいことから、現役大蔵官僚が書いていると信じられていたが、上巻の終わりあたりで、すり替えた答弁書の文言で「送り仮名が違う」と気が付けば下巻を読まずに犯人が判ってしまうため、個人的にはミステリーとしては中途半端だと思う。「青本」で苦労した身には面白いが、新入生が面白がるレベルであって、作者は入省して数年の極めて若手であると思われ、権力機構の内幕ものとしてはスケールが小さい。

 内閣法制局では、こうした機械的チェックは行われていることを前提に、法律が規定する概念や用語が、現行法制下で矛盾しないかどうかチェックをする。昔は大変な労力を要する作業であり、膨大な法律の内容をある程度把握し、どこに同じ文言が使われていそうかがわからないとできない職人技であったが、今は法令検索システムがあるのでだいぶ楽になった。同じ単語の使われている事例を全て検索し、文言の概念に矛盾や違いがないことを確認し、それを文書にして提出する。だから、現行法令にない言葉、たとえば「リサイクル」という言葉を日本法制上最初に書くのは大変である。「リサイクル」という言葉は、1995年の「包装容器リサイクル法」で初登場するが、法案策定担当者は内閣法制局の担当参事官に、法案として現在起草者が考えている意味以外では日本語として使われておらず、今後見通せる限りの将来にわたり同じ意味で使われるだろうと考えられる根拠を示し、納得させなければならないからである。実際にこの作業をやっていた課の隣で、同級生が担当して内閣法制局に通っていたのを見ていたが、自分では絶対に関わり合いになりたくないと思うくらい大変な労力であった。最初に「エネルギー」という言葉を法律に入れた人たちの苦労など想像に余りある。

 内閣法制局には、部が4つあって、それぞれ所掌する役所が決まっている。課長クラスの参事官は、自分の担当する役所の担当するいくつもの局が提出する法案の全てについて、一言、一言全てチェックをしていくのである。間違いは許されない。あくまで減点主義の仕事である。法律解釈のチェックまで行うわけだから、参事官が部下に任せられる仕事は誤字脱字のチェックくらいであり、ほとんどの作業を自ら行わなければならない。霞が関の執務室に一年中こもり、押し寄せる役所の職員を相手に格闘することになる。そこに、官僚としての醍醐味である、切った張ったの舞台回しも、自ら仕掛けて世の中を動かす妙味もない。専門性が高い仕事であるから、参事官になると任期は5年程度となり、通常の人事ローテーションからはずれてしまう。更に、専門性をかわれて再出向となることも少なくない。

もちろん、官僚としての地位とか格というものは高い。各省庁からの出向者で構成される内閣法制局で各省庁を相手に働くわけだから、無能では務まらない。省内の法律実務経験を通じて積み上げられた評価に基づき、緻密な頭脳な持ち主で粘り強い性格の者が選ばれる。内閣法制局のトップである長官は、参事官クラスでの勤務経験を経て、部長から法制次長を経て昇進している。長官ともなれば、各省の事務方のトップである事務次官を越えて閣僚級となる。給与面でも、法制次長が事務次官と同格であり、長官は更に高い。年次の関係でも、同期の中で最後に退官する事務次官より長官は上位であることが慣例である。2001年に廃止されるまで公邸も存在した。この公邸は、長官公邸の廃止後、総理大臣官邸の移設改築工事に伴い、小泉総理が居住したことがあるが「首相公邸、官房長官公邸より上。官僚トップの方が大事と思ってるんだろ。」とつぶやいたとされるほどの豪邸であった。この建物は1997年に建て替えられたものであるが、以前の建物の管理人は日本人なら誰でも知っている有名女優のご両親がされていたことがある。

内閣法制局という組織(1) 法案作成過程における内閣法制局の役割が注目されるわけ

 

 書いておいても、発表の機会のないままに古くなってしまう原稿がある。内閣法制局の政治的意味についてまとめていたが、発表の機会がなかったので少々手直しの上、ここに掲載しておく。

 

 最近、内閣法制局という組織が注目されている。集団的自衛権行使容認への政府解釈変更を目指す安倍政権にとって、その障害となる内閣法制局獅子身中の虫ともいうべき存在だからである。「政府解釈なんだから政府の最高責任者である総理大臣が『変えろ!』と言ったら変わるんじゃないの?」と思われるだろうが、実際はそんなに簡単でない。内閣法制局は、事実上憲法9条解釈の最終判断を行っている。今や、官庁の中の官庁として、官僚支配の牙城のように思われているが、本当にそのような存在なのだろうか?

 

 内閣法制局に対する着目は、新しい話ではない。今回は集団的自衛権を巡る問題だが、憲法9条の解釈問題で、この国で最も権威ある解釈を行えるのは内閣法制局でありつつけてため、9条問題が浮上するたびに議論される。しかし、話が少々ややこしいので毎回きちんと議論が煮詰まらないうちに下火になってしまうのである。そもそも憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定しているから、最終判断は最高裁判所が行うようにみえる。しかし、自衛隊の前身である警察予備隊の創設が違憲かどうかを問われた裁判で、最高裁自身が81条の定める違憲立法審査権は「特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができる」という立場をとり、抽象的に警察予備隊創設は合憲か違憲かを審査することはできないとし、判断を行わなかった(「警察予備隊違憲訴訟」最高裁判所昭和27年10月8日大法廷判決)。憲法学の世界では、これを「付随的違憲審査制」というが、この立場では、集団的自衛権行使が9条の下で可能かどうかの判断も、「特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合」がない限り、裁判所では行われない。最高裁判所の判断が示されない以上、現実には政府の法律見解を形成する担当の役所である内閣法制局の判断が一番重要だということになるのである。内閣法制局自身も、こうした位置づけに対応し、国会における与野党論戦のどちらにも与せず、事実上の憲法の有権解釈者として9条の解釈改憲といわれる政治過程の立役者としてふるまってきたのだ。

 近年、これに加えて、政治主導や市民運動による政策実現過程において、法案の省庁における策定過程での法案文言の微細なテクニックによってその趣旨が大きく歪められたり、実現が阻まれたりする例が認識されるようになってきた。

 こうした内閣法制局に対する着目に共通するのは、政治家と官僚のどちらがこの国を動かしているのかという問題意識である。最高裁判所や国会自身を差し置いて、憲法9条の解釈を事実上決めたり、実現すべき政策のイメージが国会である程度定まっているにも関わらずその実現を阻んでいるのは、官僚組織の中でも具体的にどの組織なのかという犯人捜しであり、その犯人と目されるのが内閣法制局なのである。法律を絶対視して人を損なう役人や法律家を批判して「法匪」というが、内閣法制局こそが「法匪」だというわけだ。

 

 内閣法制局に対するこうした批判は、高級官僚に操られる内閣の情けない実態を批判するという意味で、政権批判という形で展開されることがほとんどであったが、政権中枢から政治主導に抵抗する官僚勢力への批判という形で展開されることもある。安全保障関連法制を巡って、内閣法制局長官経験者から異論が相次ぎ、現役幹部にも慎重意見が広がっていることを受け、安倍政権の目指す法改正の趣旨に賛成とみられた小松一郎駐仏大使を内閣法制局長官に起用した。後述するように長官は、内閣法制局参事官として長年内閣提出法案の審査を担当した後、部長、次長と昇進したものが昇格することが慣例として定着していたので、外務省内で国際法畑を歩んではいたのもの法制局勤務のなかった小松の起用は、「法匪」として内閣の方針に消極的な姿勢に終始することは許さないという官邸の強い意向を示すものと理解された。政治主導の象徴として、政治家こそが官僚を指導するのだということである。

電波芸者の質を上げたい!

 学識経験者としてマスコミにコメントを求められることがある。テレビの情報番組を見ていて間違った認識に基づいてたり、不正確なコメントを見るたびに「俺にいわせろ!」と思っているので、喜んでお引き受けしている。

 でも、やってみるとこれがなかなか難しい。僕のようなちんぴらコメンテーターには、みんながワイドショーで知ってるから「担当者は反省すべきですね」っ終われるお題はいただけない。気候変動枠組条約締約国会議の評価(これは学問的な専門のテーマの一つです)とか、トランプ新政権における安全保障担当補佐官の交代の意義(政治学の高等教育のほとんどはアメリカなので詳しいんです)とか、結構ややこしいのばっかり。理解してもらうには、「なんたら条約って何?」とか「なんとなく知ってるけど、今どうなってたっけ?」とか、米国の安全保障政策の意思決定における大統領直結の安全保障問題担当補佐官の位置づけとその歴史的変遷とか説明しないといけない。そう、コメンテーター初心者にこそコメントが難しいお題がふられるのだ。

 大学教師をやっていると、基本単位は90分なので章立て、節立てちゃんとして話ができるけど、テレビだと30秒、ラジオでも4分が限度。その途中にキャスターに質問をされたりするから、結論を一言でばっさり言わなくちゃいけない。もちろん、不正確とか一方的とか批判されるリスクをしょって。これをちゃんとやらないとお使いいただけなくなる。コメンテーターの中には、一言バッサリ笑いをとって、なおかつ深く考察するきっかけを作るコメントをしている人が(そんなに多くないけど)いらっしゃるので勉強させていただいている。

 学者の世界では、メディアに出てコメントする人をさげすむ雰囲気がものすごく根強い。大抵は、テレビ局の女子アナだの同席する芸能人とお知り合いになれてうらやましいという嫉妬だけど、専門家として解説する以上、前提条件と根拠を明示して、自分個人の解釈の部分を他人の業績と分けて「ちゃんと」説明するなんてテレビや新聞じゃ無理だからやるべきでないという真面目な批判がある。そんなことにかまけてる暇があるなら、自分の専門の仕事をすべきだということだ。

 これは正しい。僕の世代より上の仰ぎ見るような立派な先生は大抵こういうご意見だった。実際、コメンテーター業の単価は世間で思われてるよりはるかに安くて、用意するための手間あるからコストパフォーマンス悪い。炎上リスクも含めればやらないのが正解なのだろうと思う。だから、マスコミに出てくる学者はたいてい「電波芸者」と陰口をたたかれる。

 でも、「電波芸者」って大事だと思う。だって、民主主義なんだもん。テレビがあおる市民感情に政策が流されるテレポリティクス(Tele-Politics)なんだから。バブルの前、1980年代まで、この国では「政治三流、経済二流」という言葉があった。政治家なんて口では天下国家を論じているけど所詮は利権あさり、経営者だって自分の保身と金儲けしか考えてないでしょっていう意味だ。この言葉には本当は「官僚一流」という続きがあるという含みがある。政治家が次の選挙目当てに口ではきれいごとを言いながら自分と自分の支援者のために利権作りにまい進し、経営者が自分と自分の会社の利益のことだけを考えていても、この国が回っているのは高学歴だけど清貧に甘んじ日々公益のために必死に仕事をしている官僚と呼ばれる人がいて人知れず頑張っているからだという意味である。

 でも今時そんなこと思っている人は皆無だし、そんなこと思ってる人がいた時代があったなんて覚えている人もほとんどいない。「官僚」といえば、格安家賃で都心の公務員住宅に住んでいい加減な仕事しかしないのに自分たちの身内で税金を無駄遣いすることには一生懸命なけがわらしい人たちというイメージが定着した。「政治主導」がキーワードだった民主党政権を経て、テレビで政策を説明するのは政治家の役割になった。80年代、竹下政権下で消費税が導入された時、テレビで消費税の必要性を説明していたのは大蔵省の主税局長だったけど、今は増税を議論するのは与野党国会議員になった。でも、政策分野によってはややこしいものがある。というか、政策ってたいていややこしい。「生兵法は大怪我のもと」。中途半端な知識で議論が深みに入ったら危険だし、次の選挙を考えたら言いにくいことはたくさんある。それに政権中枢の役職に就いたら言っちゃいけないくなることもある。

 だから、コメンテーターの役割は重要だ。「電波芸者」と揶揄している場合ではないし、使う側の媒体の側もその質を厳しく見極めるべきだ。