解釈改憲の技術的限界―集団的自衛権に関する山本最高裁判事発言の本当の破壊力―

内閣法制局関連で、最高裁の山本庸幸判事の就任記者会見の発言に触れたが、その発言についても眠っている原稿がある。2013年8月時点では必要であったが、公表する時期を失してしまっている。ついでなので、自分自身の問題意識を確認する意味もあるのでそのままここに公開しておく。

 

 8月20日に就任した山本庸幸最高裁判事が、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認を「非常に難しい」と発言したことが波紋を呼んでいる。行使容認を目指す安倍政権が、最大の障害となってきた内閣法制局の見解を変更させるため、そのトップである長官に内閣法制局に勤務経験を持たない小松一郎前駐仏大使を就任させた直後であり、小松氏の長官就任に伴う前長官の山本氏が最高裁判事就任の記者会見の場での発言であったことから、翌日、菅義偉内閣官房長官が不快感を表明し、その後憲法9条改正を巡るいつもの議論に取り込まれる展開となっている。

 しかし、この発言の本当の破壊力は理解されていない。今回の発言のインパクトは、安倍政権自身が任命した最高裁判事が、法律技術論として内閣の解釈では集団的自衛権行使容認は不可能だと言っていることにある。政策判断の問題として集団的自衛権の行使が妥当かどうかではない。行使容認には憲法改正が不可避であり、内閣の憲法解釈変更では不可能だと、政権自身が指名した判事が言っているという事実なのである。

 小松長官の就任に至る議論に共通する理解は、内閣法制局を官僚支配の牙城とみなし、戦後レジームの擁護者として憲法9条の解釈を墨守する機関とみなすことである。だから、9条改正を視野に集団的自衛権行使容認をその第一歩とみなす論者は、内閣法制局悪玉論を唱え、内閣に属するはずの法制局が内閣の政治判断を制約するなら長官人事に積極派を置くべしとし、今回の発言に対しても最高裁判事の政治的発言の不当性を指摘する。これに対し護憲論者は、解釈改憲の危険性を指摘し、今回の発言でも最高裁判事の内閣からの独立性を指摘する。そして、議論は集団的自衛権行使の是非に収斂していく。

 今回見過ごされようとしているのは、集団的自衛権の行使は、内閣法制局が解釈を変更し、政府見解が変更されようとも、憲法自体の問題として現行の条文の下では不可能であると、憲法の真の公定解釈機関である最高裁判所の一人の構成員が認めているということである。これでは、安倍内閣はもとより全ての内閣の下での努力が意味がないということになる。山本判事の発言の詳細を報道されているところに基づき検証しよう。

 

朝日新聞8月21日朝刊http://digital.asahi.com/articles/TKY201308200375.html?ref=comkiji_txt_end_kjid_TKY201308200375

Q 憲法9条の解釈変更による集団的自衛権の行使容認について、どう考えるか

A 前職のことだけに私としては意見がありまして、集団的自衛権というのはなかなか難しいと思っている。

というのは、現行の憲法9条のもとで、9条はすべての武力行使、あるいはそのための実力の装備、戦力は禁止しているように見える。

しかし、さすがに我が国自身が武力攻撃を受けた場合は、憲法前文で平和的生存権を確認されているし、13条で生命、自由、幸福追求権を最大限尊重せよと書いてあるわけだから、我が国自身に対する武力攻撃に対して、ほかに手段がない限り、その必要最小限度でこれに反撃をする、そのための実力装備を持つことは許されるだろうということで、自衛隊の存立根拠を法律的につけて、過去半世紀ぐらい、その議論でずっとやってきた。

従って、国会を通じて、我が国が攻撃された場合に限って、これに対して反撃を許されるとなってきた。

 だから、集団的自衛権というのは、我が国が攻撃されていないのに、たとえば、密接に関係があるほかの国が他の国から攻撃されたときに、これに対してともに戦うことが正当化される権利であるから、そもそも我が国が攻撃されていないというのが前提になっているので、これについては、なかなか従来の解釈では私は難しいと思っている。

 しかしながら、最近、国際情勢はますます緊迫化しているし、日本をめぐる安全保障関係も環境が変わってきているから、それを踏まえて、内閣がある程度、決断をされ、それでその際に新しい法制局長官が理論的な助言を行うことは十分あり得ると思っている。

 

Q 憲法の条文が変わっていないのに、解釈を変更して対応することは可能か

A 一般に法解釈論だが、9条は非常にクリアカットに武力行使はいけないと書いてある。それについて、例外的に我が国自身が攻撃されたときは、前文と13条の趣旨からして反撃が許されると解釈してきた。私はそれが法規範だと思ってきた。法規範そのものは変わっていないわけだ。その範囲内で、それと同様の説明がまたできるのかが一つの考え方だと思っている。その可能性は決して否定するものではないが、私自身は、国会で何回も説明されたこともあり、説明してきたこともあり、非常に私自身は難しいと思っている。

 ただ、一般論として、法解釈だから、新しい事態に対して新しい法律的な論拠を持って説明することは、それは一般的にはあり得ると思う。

Q ご自身の考えとしては、基本的には難しいと

A そうですね。そういうふうに長い間、国会でも説明してきた。ただ、そこを新しい解釈を持って、新長官がどう内閣に対して、法律的な進言をするかということにもよると思う。それは論理的な考え方の工夫というのはあり得るとは思っているが、私自身がどうかといえば、なかなか難しいと思っている。

Q 集団的自衛権の解釈変更以外に、憲法を改正する方法もある

A それは国民の選択であって、何らかの法規範が現状に合わなくなったということであれば、その法規範を改正するということは、普通の法律では、私は長官として常時やってきたわけだから、そういうふうなことは一番クリアカットな解決ではある。クリアな解決だ。するかどうかは、国会と国民のご判断だ。

Q 解釈変更よりは憲法そのものを変えた方がはっきりしていると

A そうだと思う。なかなか難しいという非常に細い道をたどるよりは、憲法そのものを変えないとなかなかできないことだと思っている。ただ、いろいろ議論がある。集団的自衛権というのは、我が国が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されてそれを一緒に戦おうということ。それが完全にOKとなるなら、地球の裏側まで行って共に同盟国と戦うということになる。それが、現行の憲法9条のもとで許されるかどうかという議論になるが、それが一つの極端。もう一つの極端は、4類型といわれている、「併走する米艦をどうするか」「我が国を飛び越えてくる同盟国に向かうミサイルをどうするか」という話。これはかなり次元が違う話。4類型は比較的目の前を見た細かい話で、もし集団的自衛権を完全に認めるなら徹底的にいってしまう。だから、そこは私自身は、我が国自身が攻撃されたときという解釈を、アナロジーで何かそういう集団的自衛権的なものができると考えついたとしても、そこでやはりある程度の制約は9条上は必ずかかると思っている。

 いずれにせよ、私は前職についてかなり申し上げたが、これは新しい法制局長官が判断することだと思っている。もう一度言うが、私自身は完全な地球の裏側まで行くような集団的自衛権を実現するためには、憲法改正をした方が適切だろう、それしかないだろうと思っている。

Q 解釈変更のために、伝統的な人事の在り方に介入するという手法についてはどう考えるか

A それは人事権者のなさる話なので、私が申し上げる立場にはないと思う。

 

 これを素直に読めば、山本判事が集団的自衛権の行使の政策的な当否を注意深く避けて議論していることがわかる。国際情勢の変化に対応するために政権が決断を行うに際し、内閣法制局は法律理論に基づく助言を行うとしている。しかし、憲法9条は、いうまでもなくその第1項で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とし、第2項において「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定する。ただし、我が国自身に対する急迫かつ不正な武力攻撃に対しては、さすがにこの憲法の規定も必要最小限の反撃まで禁じているわけではないとされてきたわけだ。

 今、集団的自衛権に関して主として問題となっているのは、例えばイラク戦争において多国籍軍への参加を求められた場合、どこまで軍事行動に協力することができるかとか、北朝鮮の米国本土を狙ったと考えられるミサイルが日本上空を通過していく際に、これを見過ごすのかといったことであって、日本国土本体への攻撃ではない。日本本土に対する攻撃に際し、米軍との共同行動をとることは日米安全保障条約上、当然のこととされているのである。これに対し、米国をはじめとする同盟国が攻撃の対象である場合、あるいは国連平和維持活動に参加する自衛隊が、同一活動に参加する他国の軍隊が攻撃されている場合に、自衛隊がどこまでの活動が行いうるのかといった問題、自然権生存権の存在を前提とする自衛権の問題ではない。

 こうした問題について、最高裁判事として「憲法そのものを変えないとなかなかできないことだと思っている」といったわけだ。最高裁判所は15人の判事の合議体であり、山本判事一人の意見の影響力が絶対ではないが、直前まで内閣法制局長官として現行憲法下で政府見解を理論的に支えてきた専門家が「前職のことだけに私には意見があって」と前置きしての発言である以上、最高裁が法律技術論の問題として集団的自衛権行使の解釈変更による容認を認めない可能性が十分あると考えざるを得ない。今後、内閣法制局の解釈が変更され、それに基づき自衛隊法やその他関係法令が改正されても、最終的には最高裁でそれが違憲とされることがありうる。日本の場合、裁判所の違憲立法審査権はアメリカ型の付随的違憲審査制をとっているというのが通説であるため、実際に自衛隊が問題となる行動を起こした後、それを裁判の中で問題となった場合にのみ判断が示される。具体的に言えば、集団的自衛権自衛権の行使としての自衛官武力行使に伴い死者が発生した場合などにおいて、その殺害行為が正当なものだったかというように問われる場合である。集団的自衛権発動を容認する法令が違憲であった場合には、それ以外の法令で当該殺害行為の違法性を阻却する事由がない限り、当該自衛官及びその指揮官は刑法上の殺人罪に問われる可能性があることになる。

 

 法律技術論は、とかく面倒くさい議論であることから敬遠されがちである。マスコミは、「有識者」にコメントを求める。この場合集めるべきコメントは、①憲法9条の改憲派護憲派の見解、②その対立に基づく与野党の動き、③軍事問題と外交問題の専門家、④内閣法制局という行政組織に関する専門家、⑤山本判事個人の評価、⑥外国マスコミの報道ぶりくらいであろう。これらの中に、立法過程と法律技術論に関するものは含まれない。

 テレビ局の報道部という何でもアリだから、こういう細かい話は扱わない。マスコミの中で専門性の高い新聞社でも、政治部、経済部、社会部といった組織建てであり、この手の問題は政治部の扱いであるから、与野党の動きのフォローがメインとなる。専門性といっても、外交・軍事の経験のある記者くらいだから、立法技術や法律の制定過程についての目配りは欠ける。

 学者はどうか?憲法学者改憲、護憲の議論をするが、内閣法制局の位置づけは政治学行政学の分野である。政治学は、行政過程の詳細については案外疎い。行政学は、行政という法律の執行過程を分析するものという位置づけだったから、法案作成過程に関する研究はここ10年くらいの話である。まして、内閣法制局なんて地味な役所の話を知っている人はどこにもいなかったのだ。

 そして、今回も根本的な問題が見過ごされていってしまうのだ。

内閣法制局という組織(3) 内閣法制局の法案チェック機能の政治的意味

 

  内閣法制局によるチェックを経た内閣提出法案だからといって、政策的に重要なものばかりとは限らない。中央省庁の局長クラスにとって、自らの所掌事務に政治的に注目を集める問題がないことも多い。官僚は公務員であり、厳格な身分保障があると考えられているが、本省の局次長級以上の上級幹部は「指定職」とされ、民間企業の役員待遇であり、給与も高いが身分保障は存在しない。事務次官を頂点とする出世競争に勝ってより上位とされるポストにありつけなければ、その時点で退官となる。官僚の地位が高かった90年代以前は、組織内での評価によって、ある程度の序列が自ずから決まり、同期の中で「事務次官候補」とされる少数の者以外は順次天下りポストのあっせんと引き換えに退官していくのが慣例であった。しかし、近年は役所の人事に対する政治家の影響力が強まっているため、有力政治家に対し常にアピールすることが必要になる。実際、官房長官をはじめとする少数の政治家の力による逆転人事といわれるものは少なくない。そうした局長たちにとって、有力与党政治家に対する手っ取り早いアピールは、法律改正や新法の制定のための根回しである。このため、特に法律を改正したり、新法を制定しなくてもできるにもかかわらず、強引に法案提出を仕組むことも珍しくない。

 こうした「不必要な法案」が増加しているかどうかを数字によって示すことは難しい。法案の増減や成立率は、その時の政治情勢に大きな影響を受けるからである。2000年代に入り、立法過程についての研究が進展しているが、その背景には国会議員の側にも「不必要な法案の審議に時間と労力が使われ過ぎ、本質的な問題について検討する時間が失われているのではないか」という問題意識がある。衆議院副議長が東大総長に対して「くだらない法律案の審議に煩わされずにすむ方法はないか」という相談があり、その総長が若手研究者に、この分野の研究を若手研究者に促したという話もある。研究の詳細はここでは紹介しないが、政治学の世界における問題意識は、内閣は官僚によって動かされているという「官僚内閣制」だとの認識に基づく「(承認印を押すだけの)国会ラバースタンプ論」を修正し、国会はそれなりに機能していることを示す必要があるのではないかという点にある。このため、国会自身の機能のあり方、具体的には、国会議員の議案発議要件(衆議院20人、参議院10人以上の賛成を原則要する)と定める国会法56条や、委員会における与野党協議の上全会一致の支持を得たものを委員長提出法案とする慣行の成立といった手続き要件と法案数や成立率との関係を分析しているものが多い。ここで議論している局長の「仕事してます」というアリバイ的な法案に関する議論は、学問の世界にはなじみにくい。論文として正面から取り上げた例を、個人的には知らない。

 

 こうした「不必要な法案」の国会提出への最大の抑制装置は内閣法制局である。内閣法制局で、こうした法案の審査項目は「法律事項」の有無である。ここでいう「法律事項」とは、政策のうち「法律で定めることが必要である事項」である。「法律で定めることが必要である事項」があるから法律にするのだろうと考えると矛盾しているのだが、そもそもの目的が役人のアリバイ作りである法案には何が法律事項なのかわからないものも少なくない。内閣法制局の法案審査で、課長補佐クラスの役人が苦労させられるのがこの点だ。「なぜこの法案が必要なのか?」という質問に答えられないのである。

 典型的な例が「○○振興法」のたぐいである。昔の繊維工業構造改善臨時措置法といった法律では、実際に独禁法の例外規定といったまさに「法律で定める必要のある事項」があったが、自由市場経済万能主義のご時世で独禁法の例外規定などめったに作れるものではない。「○○振興法」といっても、「○○」を「半導体産業」だの「携帯電話製造業」だのといった特定企業を念頭に置いたような規定も、それ以外の産業から袋叩きに合うし、そもそもWTOの関係から認められるはずもない。よくあるテクニックは、「○○」を、「中小企業」とか「山村」とか「新技術」とか抽象的なものにしておき、具体的には各省庁の計画承認によって規定し、その承認を受ければ、税制上の優遇や特定の金融優遇措置を受けられる仕組みにすることである。税制上の優遇措置を設けるには、租税特別措置法の例外規定の設置が必要であり、金融優遇装置とは中小企業信用保証法といった法律の例外規定の設置が必要になるから、「法律事項」があることになる。通産省内では、計画承認にぶら下げるこうした措置規定が、税制優遇と特別融資に加えてもう一つあれば、内閣法制局審査を通すことができるとされ「バカの三点セット」と呼んでいた。

 こうした「不必要な法案」について、内閣法制局関係者自身が書いたものがある。少し長くなるが引用しておこう。

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 中小企業、農林水産業、地方などの振興ために、いわゆる振興法と称する一群の法    律が立案されることがある。法律とは、法律事項すなわち人の権利義務にかかわる事項を規定する社会的規律であるという観点からすると、果たして振興のための法律というものができるものなのか、などという素朴な疑問がわいてくるのもの無理からぬものがある。

しかしながら、中小企業執行法、山村振興法、新技術振興法などの一群の法律が、現に存在している。振興法というものは、とりわけ制定の過程と制定後しばらくの間、実際に人々から大いに評価され、それなりの社会的経済的な役割を果たしている法類型だということである。すなわち、振興法というものは、民法や刑法の類のように、いわば法律の王道を歩むような存在ではないものの、その時々の政策課題を抱えて、人々の関心を引き、その方向へと社会全体のベクトルを傾けるという重要な働きをしているのである。

平成18年には、中小企業のものづくり基盤技術の高度化に関する法律が制定された。これは、中小企業によるものづくり基盤技術に関する研究開発及びその成果の利用を促進するための措置を講ずるためのものである、ところが、この法律の制定を知った、とある中小企業経営者は、「ようやく我々のような金型業者にも、世間の注目が当たるようになった」と感激をしたという。これで我が国の中小製造業者が元気になってもらえば、法律の体裁や経緯や格式など、そんなにうるさく言わなくてもいいのではないだろうかという気にもなるのである。           (山本庸幸『実務立法演習』商事法務 2007)

・・・・・ 

 この文章の著者は、小松一郎氏の前任の内閣法制局長官であった山本庸幸氏なのである。山本氏は、長官退任後最高裁判所判事に就任したが、就任会見で集団的自衛権について問われ「集団的自衛権の行使は、従来の憲法解釈では容認は難しい。実現するには憲法解釈が適切だろうが、それは国民と国会の判断だ。」と発言したことが話題を呼んだ。ここから察せられるのは極めて謹厳実直な法律家の姿であるが、その彼がこういうことを書くのである。要するに、各省庁がゴリ押しすれば、たいていの法案は作れてしまうということになる。ちなみに、山本氏は通産省の出身である。

 筆者自身も、参事官経験者であったある通産官僚(その後、内閣法制局の部長も経験された)から、こうした「不必要な法案」も効用があると聞いたことがある。当時、ウルグアイラウンド交渉後の農産物輸入自由化対策で6兆円という予算がコミットされていた。これについての発言である。

こうした巨大な政治力がかかり、農水省という役所がその政治力の向かうところに従って仕事をすると巨額の予算がつき、実際に執行される。しかし、この巨大な予算は、現実には農水省族議員との予算分配システムの中で、輸入自由化に向けた日本農業の国際競争力強化のために使われることはなく、激変緩和措置の美名の下に既得権集団に吸収されてしまうだけになるだろう。現実の経済は、市場経済の力が働かないと変化しない。補助金をつぎ込んで市場が合理化されることなどありえない。通産省の場合、幸いにも農水省のような族議員を巻き込んだ政治力がない。その代り、「○○振興法」の類を無駄だとわかっていても生産する。そのことによって、与党議員が満足し、無駄な補助金をばら撒くことなく国際競争の構造変化に対応した産業構造改革を成し遂げられるとすれば、本当は無駄ではない。僕は、参事官として、法律効果に疑問のある法案をそういう気持ちで審査してきた。

 

 内閣法制局は、「法匪」である。しかし、相当いいかげんな法匪であるというのが実態と考えて間違いがない。政治的な政策立案過程において、現実の与野党の政治家との利害調整という現実の中で、彼らの考える「正しい政策」を曲がりなりにも実現するために、たとえ「法匪」と呼ばれようとも日々努力している公務員である。実証的な政治学の立場としては、内閣法制局を官僚の政治支配の牙城とみるのは無理がある。集団的自衛権の問題も、長官人事をいじくって実現すべきこととは考えられない。法案作成は、国権の最高機関であり、唯一の立法機関である国会が正面から議論して取り組むべき課題である。

内閣法制局という組織(2) 内閣法制局の実態

内閣法制局という組織(2) 内閣法制局の実態

 霞が関の中央官庁に就職した役人にとって、法案作成は、予算獲得や組織の維持拡大と並ぶ重要な仕事である。憲法には「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(41条)と書いてあるからといって、国会議員本人はもとより、その秘書が法律を書くことなどほとんど皆無といってよい。もちろん国会議員の中には弁護士出身者も少なくないが、選挙と政局に忙殺され、法律の条文など小難しいことは役人に丸投げというのが実態である。法案の大半は「内閣提出法律案(閣法案)」であり、各省庁の役人が内閣法制局の審査を経て提出するものである。

なお、議員提出法案についての法律文言のチェックなどは、内閣法制局でなく、衆議院参議院それぞれの法制局で審査される。

 

 最近のデータでみると、2010年以降の3年半の期間において、具体的には第174回通常国会(平成22年1~6月)から第183回通常国会(平成25年1~6月)までの期間に国会に提出された法案は全部で677本あるが、そのうち閣法案は358本であり、議員提出法案も319本ある。「結構あるではないか?」と思われるだろうが、この議員提出法案319本のうち成立したものは94本に過ぎない。閣法案のうち成立したものは251本もあるから、成立率でみると70%対29%と大差がある。議員提出法案は、野党の提出する対抗法案が多いから成立率が低いのはある程度やむを得ないが、公職選挙法のように所管省庁のない国会固有のものや、いじめや子供の貧困といった与野党対立になりにくいものが多く、政策的な議論を経て各省庁に実施されるもののほとんどが省庁自身によって起草されているのが現実である。法案作成過程に関する研究の嚆矢となったのは田丸大の『法案作成と省庁官僚制』(信山社2000)であるが、田丸自身も東京大学法学部を卒業して建設省に勤務した経験を持ち、政治学者に転向した経歴を持つ。この研究にしても、建設省という役所内部のプロセスと地方自治体との調整、他省庁との折衝、そして国会審議の過程についての分析であり、内閣法制局の役割については最小限しか言及されていない。

 

 では、内閣法制局では具体的にどのような仕事をしているのだろうか?

内閣法制局も行政機関であるから、設置法があり、所掌事務が以下のように記載されている。

第三条  内閣法制局は、左に掲げる事務をつかさどる。

 閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること。

 法律案及び政令案を立案し、内閣に上申すること。

 法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること。

 内外及び国際法制並びにその運用に関する調査研究を行うこと。

 その他法制一般に関すること。

 ここで大事なことは、「法制一般に関すること」に限られることである。政策の中身は、法律技術論の観点からでなければ、意見することはできない。役人として、一番面白いのは、政策論争をして世の中を仕切り動かすことと考えられているから、法制局の仕事は本当の「お役所仕事」として、つまらない仕事と考えられている。

 一番労力をとられるのは、「正しい日本語」であるかのチェックである。誤字脱字の類はもちろん、送り仮名の一字一句に間違いがあってはならない。実際、膨大な法律条文が国会に提出されているが、修正を必要とするものは極めて少ない。

 ここでいう「正しい日本語」とは、国語学や文学において正しいという意味ではない。法令用語として正しいかどうかである。「法令用語」の基本は、「青本」である。「青本」の本当の名称は「新公用文用字用語例集」といい、専門の本屋から出版されている。日本語の問題としては正しい送り仮名であったとしても、これに載っていないものは間違いとされる。法律の文言はもちろんのこと、国会答弁の答弁書の類であっても、これに従った書き方ができないと「役人として恥ずかしい」とされる。昔は、法学部出身で国家公務員試験第1種の法律職の区分で合格した人を「法令事務官」といって、法律関係の事務を任せることが多かったから、「役所のきちんとした文章が書ける人」と見なされ、法律ほど厳密な文章でなくても彼らのチェックを受けることが慣例となっていた。これは、法学部教育の有用性を認めたり、役所の日本語がちゃんとしていることを担保したりするためというより、単に技官や民間企業からの出向者に対するいじめである場合が多い。

90年代に『三本の矢』という小説が話題になったことがある。バブルを憂い、それを早期に崩壊させ事態を収拾させるために、大蔵大臣の国会答弁をすり替え、意図的に銀行の取り付け騒ぎを起こすという話なのだが、すり替えられた答弁の送り仮名が「青本」に従ったものではなかったために、銀行からの出向者の犯行だとばれるというオチだった。やたらに大蔵省内の事情に詳しいことから、現役大蔵官僚が書いていると信じられていたが、上巻の終わりあたりで、すり替えた答弁書の文言で「送り仮名が違う」と気が付けば下巻を読まずに犯人が判ってしまうため、個人的にはミステリーとしては中途半端だと思う。「青本」で苦労した身には面白いが、新入生が面白がるレベルであって、作者は入省して数年の極めて若手であると思われ、権力機構の内幕ものとしてはスケールが小さい。

 内閣法制局では、こうした機械的チェックは行われていることを前提に、法律が規定する概念や用語が、現行法制下で矛盾しないかどうかチェックをする。昔は大変な労力を要する作業であり、膨大な法律の内容をある程度把握し、どこに同じ文言が使われていそうかがわからないとできない職人技であったが、今は法令検索システムがあるのでだいぶ楽になった。同じ単語の使われている事例を全て検索し、文言の概念に矛盾や違いがないことを確認し、それを文書にして提出する。だから、現行法令にない言葉、たとえば「リサイクル」という言葉を日本法制上最初に書くのは大変である。「リサイクル」という言葉は、1995年の「包装容器リサイクル法」で初登場するが、法案策定担当者は内閣法制局の担当参事官に、法案として現在起草者が考えている意味以外では日本語として使われておらず、今後見通せる限りの将来にわたり同じ意味で使われるだろうと考えられる根拠を示し、納得させなければならないからである。実際にこの作業をやっていた課の隣で、同級生が担当して内閣法制局に通っていたのを見ていたが、自分では絶対に関わり合いになりたくないと思うくらい大変な労力であった。最初に「エネルギー」という言葉を法律に入れた人たちの苦労など想像に余りある。

 内閣法制局には、部が4つあって、それぞれ所掌する役所が決まっている。課長クラスの参事官は、自分の担当する役所の担当するいくつもの局が提出する法案の全てについて、一言、一言全てチェックをしていくのである。間違いは許されない。あくまで減点主義の仕事である。法律解釈のチェックまで行うわけだから、参事官が部下に任せられる仕事は誤字脱字のチェックくらいであり、ほとんどの作業を自ら行わなければならない。霞が関の執務室に一年中こもり、押し寄せる役所の職員を相手に格闘することになる。そこに、官僚としての醍醐味である、切った張ったの舞台回しも、自ら仕掛けて世の中を動かす妙味もない。専門性が高い仕事であるから、参事官になると任期は5年程度となり、通常の人事ローテーションからはずれてしまう。更に、専門性をかわれて再出向となることも少なくない。

もちろん、官僚としての地位とか格というものは高い。各省庁からの出向者で構成される内閣法制局で各省庁を相手に働くわけだから、無能では務まらない。省内の法律実務経験を通じて積み上げられた評価に基づき、緻密な頭脳な持ち主で粘り強い性格の者が選ばれる。内閣法制局のトップである長官は、参事官クラスでの勤務経験を経て、部長から法制次長を経て昇進している。長官ともなれば、各省の事務方のトップである事務次官を越えて閣僚級となる。給与面でも、法制次長が事務次官と同格であり、長官は更に高い。年次の関係でも、同期の中で最後に退官する事務次官より長官は上位であることが慣例である。2001年に廃止されるまで公邸も存在した。この公邸は、長官公邸の廃止後、総理大臣官邸の移設改築工事に伴い、小泉総理が居住したことがあるが「首相公邸、官房長官公邸より上。官僚トップの方が大事と思ってるんだろ。」とつぶやいたとされるほどの豪邸であった。この建物は1997年に建て替えられたものであるが、以前の建物の管理人は日本人なら誰でも知っている有名女優のご両親がされていたことがある。

内閣法制局という組織(1) 法案作成過程における内閣法制局の役割が注目されるわけ

 

 書いておいても、発表の機会のないままに古くなってしまう原稿がある。内閣法制局の政治的意味についてまとめていたが、発表の機会がなかったので少々手直しの上、ここに掲載しておく。

 

 最近、内閣法制局という組織が注目されている。集団的自衛権行使容認への政府解釈変更を目指す安倍政権にとって、その障害となる内閣法制局獅子身中の虫ともいうべき存在だからである。「政府解釈なんだから政府の最高責任者である総理大臣が『変えろ!』と言ったら変わるんじゃないの?」と思われるだろうが、実際はそんなに簡単でない。内閣法制局は、事実上憲法9条解釈の最終判断を行っている。今や、官庁の中の官庁として、官僚支配の牙城のように思われているが、本当にそのような存在なのだろうか?

 

 内閣法制局に対する着目は、新しい話ではない。今回は集団的自衛権を巡る問題だが、憲法9条の解釈問題で、この国で最も権威ある解釈を行えるのは内閣法制局でありつつけてため、9条問題が浮上するたびに議論される。しかし、話が少々ややこしいので毎回きちんと議論が煮詰まらないうちに下火になってしまうのである。そもそも憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定しているから、最終判断は最高裁判所が行うようにみえる。しかし、自衛隊の前身である警察予備隊の創設が違憲かどうかを問われた裁判で、最高裁自身が81条の定める違憲立法審査権は「特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができる」という立場をとり、抽象的に警察予備隊創設は合憲か違憲かを審査することはできないとし、判断を行わなかった(「警察予備隊違憲訴訟」最高裁判所昭和27年10月8日大法廷判決)。憲法学の世界では、これを「付随的違憲審査制」というが、この立場では、集団的自衛権行使が9条の下で可能かどうかの判断も、「特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合」がない限り、裁判所では行われない。最高裁判所の判断が示されない以上、現実には政府の法律見解を形成する担当の役所である内閣法制局の判断が一番重要だということになるのである。内閣法制局自身も、こうした位置づけに対応し、国会における与野党論戦のどちらにも与せず、事実上の憲法の有権解釈者として9条の解釈改憲といわれる政治過程の立役者としてふるまってきたのだ。

 近年、これに加えて、政治主導や市民運動による政策実現過程において、法案の省庁における策定過程での法案文言の微細なテクニックによってその趣旨が大きく歪められたり、実現が阻まれたりする例が認識されるようになってきた。

 こうした内閣法制局に対する着目に共通するのは、政治家と官僚のどちらがこの国を動かしているのかという問題意識である。最高裁判所や国会自身を差し置いて、憲法9条の解釈を事実上決めたり、実現すべき政策のイメージが国会である程度定まっているにも関わらずその実現を阻んでいるのは、官僚組織の中でも具体的にどの組織なのかという犯人捜しであり、その犯人と目されるのが内閣法制局なのである。法律を絶対視して人を損なう役人や法律家を批判して「法匪」というが、内閣法制局こそが「法匪」だというわけだ。

 

 内閣法制局に対するこうした批判は、高級官僚に操られる内閣の情けない実態を批判するという意味で、政権批判という形で展開されることがほとんどであったが、政権中枢から政治主導に抵抗する官僚勢力への批判という形で展開されることもある。安全保障関連法制を巡って、内閣法制局長官経験者から異論が相次ぎ、現役幹部にも慎重意見が広がっていることを受け、安倍政権の目指す法改正の趣旨に賛成とみられた小松一郎駐仏大使を内閣法制局長官に起用した。後述するように長官は、内閣法制局参事官として長年内閣提出法案の審査を担当した後、部長、次長と昇進したものが昇格することが慣例として定着していたので、外務省内で国際法畑を歩んではいたのもの法制局勤務のなかった小松の起用は、「法匪」として内閣の方針に消極的な姿勢に終始することは許さないという官邸の強い意向を示すものと理解された。政治主導の象徴として、政治家こそが官僚を指導するのだということである。

電波芸者の質を上げたい!

 学識経験者としてマスコミにコメントを求められることがある。テレビの情報番組を見ていて間違った認識に基づいてたり、不正確なコメントを見るたびに「俺にいわせろ!」と思っているので、喜んでお引き受けしている。

 でも、やってみるとこれがなかなか難しい。僕のようなちんぴらコメンテーターには、みんながワイドショーで知ってるから「担当者は反省すべきですね」っ終われるお題はいただけない。気候変動枠組条約締約国会議の評価(これは学問的な専門のテーマの一つです)とか、トランプ新政権における安全保障担当補佐官の交代の意義(政治学の高等教育のほとんどはアメリカなので詳しいんです)とか、結構ややこしいのばっかり。理解してもらうには、「なんたら条約って何?」とか「なんとなく知ってるけど、今どうなってたっけ?」とか、米国の安全保障政策の意思決定における大統領直結の安全保障問題担当補佐官の位置づけとその歴史的変遷とか説明しないといけない。そう、コメンテーター初心者にこそコメントが難しいお題がふられるのだ。

 大学教師をやっていると、基本単位は90分なので章立て、節立てちゃんとして話ができるけど、テレビだと30秒、ラジオでも4分が限度。その途中にキャスターに質問をされたりするから、結論を一言でばっさり言わなくちゃいけない。もちろん、不正確とか一方的とか批判されるリスクをしょって。これをちゃんとやらないとお使いいただけなくなる。コメンテーターの中には、一言バッサリ笑いをとって、なおかつ深く考察するきっかけを作るコメントをしている人が(そんなに多くないけど)いらっしゃるので勉強させていただいている。

 学者の世界では、メディアに出てコメントする人をさげすむ雰囲気がものすごく根強い。大抵は、テレビ局の女子アナだの同席する芸能人とお知り合いになれてうらやましいという嫉妬だけど、専門家として解説する以上、前提条件と根拠を明示して、自分個人の解釈の部分を他人の業績と分けて「ちゃんと」説明するなんてテレビや新聞じゃ無理だからやるべきでないという真面目な批判がある。そんなことにかまけてる暇があるなら、自分の専門の仕事をすべきだということだ。

 これは正しい。僕の世代より上の仰ぎ見るような立派な先生は大抵こういうご意見だった。実際、コメンテーター業の単価は世間で思われてるよりはるかに安くて、用意するための手間あるからコストパフォーマンス悪い。炎上リスクも含めればやらないのが正解なのだろうと思う。だから、マスコミに出てくる学者はたいてい「電波芸者」と陰口をたたかれる。

 でも、「電波芸者」って大事だと思う。だって、民主主義なんだもん。テレビがあおる市民感情に政策が流されるテレポリティクス(Tele-Politics)なんだから。バブルの前、1980年代まで、この国では「政治三流、経済二流」という言葉があった。政治家なんて口では天下国家を論じているけど所詮は利権あさり、経営者だって自分の保身と金儲けしか考えてないでしょっていう意味だ。この言葉には本当は「官僚一流」という続きがあるという含みがある。政治家が次の選挙目当てに口ではきれいごとを言いながら自分と自分の支援者のために利権作りにまい進し、経営者が自分と自分の会社の利益のことだけを考えていても、この国が回っているのは高学歴だけど清貧に甘んじ日々公益のために必死に仕事をしている官僚と呼ばれる人がいて人知れず頑張っているからだという意味である。

 でも今時そんなこと思っている人は皆無だし、そんなこと思ってる人がいた時代があったなんて覚えている人もほとんどいない。「官僚」といえば、格安家賃で都心の公務員住宅に住んでいい加減な仕事しかしないのに自分たちの身内で税金を無駄遣いすることには一生懸命なけがわらしい人たちというイメージが定着した。「政治主導」がキーワードだった民主党政権を経て、テレビで政策を説明するのは政治家の役割になった。80年代、竹下政権下で消費税が導入された時、テレビで消費税の必要性を説明していたのは大蔵省の主税局長だったけど、今は増税を議論するのは与野党国会議員になった。でも、政策分野によってはややこしいものがある。というか、政策ってたいていややこしい。「生兵法は大怪我のもと」。中途半端な知識で議論が深みに入ったら危険だし、次の選挙を考えたら言いにくいことはたくさんある。それに政権中枢の役職に就いたら言っちゃいけないくなることもある。

 だから、コメンテーターの役割は重要だ。「電波芸者」と揶揄している場合ではないし、使う側の媒体の側もその質を厳しく見極めるべきだ。