内閣法制局という組織(1) 法案作成過程における内閣法制局の役割が注目されるわけ

 

 書いておいても、発表の機会のないままに古くなってしまう原稿がある。内閣法制局の政治的意味についてまとめていたが、発表の機会がなかったので少々手直しの上、ここに掲載しておく。

 

 最近、内閣法制局という組織が注目されている。集団的自衛権行使容認への政府解釈変更を目指す安倍政権にとって、その障害となる内閣法制局獅子身中の虫ともいうべき存在だからである。「政府解釈なんだから政府の最高責任者である総理大臣が『変えろ!』と言ったら変わるんじゃないの?」と思われるだろうが、実際はそんなに簡単でない。内閣法制局は、事実上憲法9条解釈の最終判断を行っている。今や、官庁の中の官庁として、官僚支配の牙城のように思われているが、本当にそのような存在なのだろうか?

 

 内閣法制局に対する着目は、新しい話ではない。今回は集団的自衛権を巡る問題だが、憲法9条の解釈問題で、この国で最も権威ある解釈を行えるのは内閣法制局でありつつけてため、9条問題が浮上するたびに議論される。しかし、話が少々ややこしいので毎回きちんと議論が煮詰まらないうちに下火になってしまうのである。そもそも憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定しているから、最終判断は最高裁判所が行うようにみえる。しかし、自衛隊の前身である警察予備隊の創設が違憲かどうかを問われた裁判で、最高裁自身が81条の定める違憲立法審査権は「特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができる」という立場をとり、抽象的に警察予備隊創設は合憲か違憲かを審査することはできないとし、判断を行わなかった(「警察予備隊違憲訴訟」最高裁判所昭和27年10月8日大法廷判決)。憲法学の世界では、これを「付随的違憲審査制」というが、この立場では、集団的自衛権行使が9条の下で可能かどうかの判断も、「特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合」がない限り、裁判所では行われない。最高裁判所の判断が示されない以上、現実には政府の法律見解を形成する担当の役所である内閣法制局の判断が一番重要だということになるのである。内閣法制局自身も、こうした位置づけに対応し、国会における与野党論戦のどちらにも与せず、事実上の憲法の有権解釈者として9条の解釈改憲といわれる政治過程の立役者としてふるまってきたのだ。

 近年、これに加えて、政治主導や市民運動による政策実現過程において、法案の省庁における策定過程での法案文言の微細なテクニックによってその趣旨が大きく歪められたり、実現が阻まれたりする例が認識されるようになってきた。

 こうした内閣法制局に対する着目に共通するのは、政治家と官僚のどちらがこの国を動かしているのかという問題意識である。最高裁判所や国会自身を差し置いて、憲法9条の解釈を事実上決めたり、実現すべき政策のイメージが国会である程度定まっているにも関わらずその実現を阻んでいるのは、官僚組織の中でも具体的にどの組織なのかという犯人捜しであり、その犯人と目されるのが内閣法制局なのである。法律を絶対視して人を損なう役人や法律家を批判して「法匪」というが、内閣法制局こそが「法匪」だというわけだ。

 

 内閣法制局に対するこうした批判は、高級官僚に操られる内閣の情けない実態を批判するという意味で、政権批判という形で展開されることがほとんどであったが、政権中枢から政治主導に抵抗する官僚勢力への批判という形で展開されることもある。安全保障関連法制を巡って、内閣法制局長官経験者から異論が相次ぎ、現役幹部にも慎重意見が広がっていることを受け、安倍政権の目指す法改正の趣旨に賛成とみられた小松一郎駐仏大使を内閣法制局長官に起用した。後述するように長官は、内閣法制局参事官として長年内閣提出法案の審査を担当した後、部長、次長と昇進したものが昇格することが慣例として定着していたので、外務省内で国際法畑を歩んではいたのもの法制局勤務のなかった小松の起用は、「法匪」として内閣の方針に消極的な姿勢に終始することは許さないという官邸の強い意向を示すものと理解された。政治主導の象徴として、政治家こそが官僚を指導するのだということである。