電波芸者の質を上げたい!

 学識経験者としてマスコミにコメントを求められることがある。テレビの情報番組を見ていて間違った認識に基づいてたり、不正確なコメントを見るたびに「俺にいわせろ!」と思っているので、喜んでお引き受けしている。

 でも、やってみるとこれがなかなか難しい。僕のようなちんぴらコメンテーターには、みんながワイドショーで知ってるから「担当者は反省すべきですね」っ終われるお題はいただけない。気候変動枠組条約締約国会議の評価(これは学問的な専門のテーマの一つです)とか、トランプ新政権における安全保障担当補佐官の交代の意義(政治学の高等教育のほとんどはアメリカなので詳しいんです)とか、結構ややこしいのばっかり。理解してもらうには、「なんたら条約って何?」とか「なんとなく知ってるけど、今どうなってたっけ?」とか、米国の安全保障政策の意思決定における大統領直結の安全保障問題担当補佐官の位置づけとその歴史的変遷とか説明しないといけない。そう、コメンテーター初心者にこそコメントが難しいお題がふられるのだ。

 大学教師をやっていると、基本単位は90分なので章立て、節立てちゃんとして話ができるけど、テレビだと30秒、ラジオでも4分が限度。その途中にキャスターに質問をされたりするから、結論を一言でばっさり言わなくちゃいけない。もちろん、不正確とか一方的とか批判されるリスクをしょって。これをちゃんとやらないとお使いいただけなくなる。コメンテーターの中には、一言バッサリ笑いをとって、なおかつ深く考察するきっかけを作るコメントをしている人が(そんなに多くないけど)いらっしゃるので勉強させていただいている。

 学者の世界では、メディアに出てコメントする人をさげすむ雰囲気がものすごく根強い。大抵は、テレビ局の女子アナだの同席する芸能人とお知り合いになれてうらやましいという嫉妬だけど、専門家として解説する以上、前提条件と根拠を明示して、自分個人の解釈の部分を他人の業績と分けて「ちゃんと」説明するなんてテレビや新聞じゃ無理だからやるべきでないという真面目な批判がある。そんなことにかまけてる暇があるなら、自分の専門の仕事をすべきだということだ。

 これは正しい。僕の世代より上の仰ぎ見るような立派な先生は大抵こういうご意見だった。実際、コメンテーター業の単価は世間で思われてるよりはるかに安くて、用意するための手間あるからコストパフォーマンス悪い。炎上リスクも含めればやらないのが正解なのだろうと思う。だから、マスコミに出てくる学者はたいてい「電波芸者」と陰口をたたかれる。

 でも、「電波芸者」って大事だと思う。だって、民主主義なんだもん。テレビがあおる市民感情に政策が流されるテレポリティクス(Tele-Politics)なんだから。バブルの前、1980年代まで、この国では「政治三流、経済二流」という言葉があった。政治家なんて口では天下国家を論じているけど所詮は利権あさり、経営者だって自分の保身と金儲けしか考えてないでしょっていう意味だ。この言葉には本当は「官僚一流」という続きがあるという含みがある。政治家が次の選挙目当てに口ではきれいごとを言いながら自分と自分の支援者のために利権作りにまい進し、経営者が自分と自分の会社の利益のことだけを考えていても、この国が回っているのは高学歴だけど清貧に甘んじ日々公益のために必死に仕事をしている官僚と呼ばれる人がいて人知れず頑張っているからだという意味である。

 でも今時そんなこと思っている人は皆無だし、そんなこと思ってる人がいた時代があったなんて覚えている人もほとんどいない。「官僚」といえば、格安家賃で都心の公務員住宅に住んでいい加減な仕事しかしないのに自分たちの身内で税金を無駄遣いすることには一生懸命なけがわらしい人たちというイメージが定着した。「政治主導」がキーワードだった民主党政権を経て、テレビで政策を説明するのは政治家の役割になった。80年代、竹下政権下で消費税が導入された時、テレビで消費税の必要性を説明していたのは大蔵省の主税局長だったけど、今は増税を議論するのは与野党国会議員になった。でも、政策分野によってはややこしいものがある。というか、政策ってたいていややこしい。「生兵法は大怪我のもと」。中途半端な知識で議論が深みに入ったら危険だし、次の選挙を考えたら言いにくいことはたくさんある。それに政権中枢の役職に就いたら言っちゃいけないくなることもある。

 だから、コメンテーターの役割は重要だ。「電波芸者」と揶揄している場合ではないし、使う側の媒体の側もその質を厳しく見極めるべきだ。